「罰金なし・禁止なし」日本のAI推進法はEU AI法と何が違うか
- EU向けサービスを開発・運用しており、日本とEUの二重対応が必要か確認したいエンジニア・PdM
- 生成AIを業務に使い始めた企業の法務・コンプライアンス担当
- 日本のAI推進法の中身と実効性を正確に把握したい方
「EU向けサービスだからEU AI法は読んだ。でも日本側で何か対応が要るのかどうか、いまだにわからない」。
2026年8月2日にEU AI法が本格的な執行フェーズに入った翌日、X上でこうした声が相次いだ。返答はバラバラで、「日本には罰金がないから何もしなくていい」「個人情報保護法の改正が絡む」「そもそも日本のAI法って何?」という投稿が入り混じった。
混乱は当然だ。EU AI法が最大3,500万ユーロの制裁金と禁止用途のリストを持つのに対し、日本の「AI推進法」(正式名称:人工知能関連技術の研究開発及び利活用の推進に関する法律)は罰金ゼロ・禁止規定ゼロ・義務的要件ゼロという設計だ。グローバル法律事務所White & Caseは「主要経済国の中でこれほど義務なしを貫いた専用AI法は世界に類例がない」と指摘している(White & Case, 2025)。
日本のAI推進法とは何か
正式名称は「人工知能関連技術の研究開発及び利活用の推進に関する法律」(通称:AI推進法)。2025年5月28日に国会で可決し、同年6月4日に主要規定が施行、9月1日にAI戦略本部の設置を含む全条項が効力を持った。全28条で構成される(Japan gov-online, 2025)。
法律の目的は文字通り「推進」だ。規制や禁止ではなく、AIの研究開発と利活用を中央政府・地方政府・研究機関・AI事業者・市民の5者が協力して進めるための座組を作ることにある。
AI事業者に課される主な規定は次のとおりだ。
- リスク管理計画の策定・運用
- AI生成結果の説明(技術的限界の範囲内で)
- 利用者保護措置の実施
- 高影響AIへの人間の監視(HITL)の確保
- 生成AI提供者:ユーザーにAIと対話していることを通知する
ただし、いずれにも罰則はない。法律上の義務として存在するが、違反しても罰金も行政処分も発生しない。執行ツールは「行政指導」と「名指し公表」の2種類のみだ。実務的な業界ガイダンスは、2026年3月31日に経産省・総務省が共同改定した「AI事業者ガイドライン Ver.1.2」(経産省・総務省, 2026年3月)で示されており、こちらも任意適用の軟性ルールである。
EU AI法・米国との3つの断層:日本のAI規制との比較
EU AI法が2026年8月2日に本格執行フェーズに入った今、日本のAI推進法との差異は三つの軸で鮮明になる。
断層① 義務の有無
EU AI法はリスクレベルを4段階(容認不可・高リスク・限定リスク・最小リスク)に分類し、段階ごとに具体的な義務を課す。採用審査や信用スコアリングに使うAIは「高リスク」に分類され、適合性評価・技術文書・ログ保存・人間監視の義務が生じる(EU AI Act)。日本には類似の分類も義務もない。
断層② 罰則の重さ
| 項目 | 日本(AI推進法) | EU(AI Act) | 米国(GAAIA草案)※1 |
|---|---|---|---|
| 最大罰金 | なし | €35M / 年商7%※2 | なし(草案段階) |
| 禁止用途 | なし | あり(10種以上) | なし |
| 執行機関 | 行政指導のみ | 各国AI規制当局 | 連邦機関(未定) |
| 哲学 | イノベーション促進 | リスクベース規制 | イノベーション寄り |
※1 GAAIA=Great American AI Act(連邦AI規制法案、2026年6月草案段階)。詳細は関連記事参照。 ※2 €35M/7%は禁止用途違反の上限(2025年2月から適用)。2026年8月2日から新たに適用されたGPAI違反の上限は€15M/3%。
Clifford Chanceは2026年4月、日本の現状を「Still no fines, still no mandates(依然として罰金なし、依然として義務なし)」と一言で評した(Clifford Chance, 2026年4月)。
断層③ 禁止規定の存在
EU AI法は「容認不可リスク」として公共空間でのリアルタイム顔認識、社会スコアリング、心理操作AIなど10種以上の用途を完全禁止する。日本には同様の禁止リストがない。政府はこれを「技術中立性の維持」と説明するが、批判者は「悪意ある利用者への抑止力ゼロ」と指摘する。
AI推進法の「名指し公表」に実効性はあるか
AI推進法の唯一の「歯」が名指し公表(公表)だ。重大な被害が生じるおそれがある場合、政府はAI事業者の名前を公に晒すことができる。
制度が実際に動き始めたのは2026年1月が最初だ。官房長官がAI生成の性的ディープフェイク問題への対応を検討すると発言し、AI推進法の調査権限を根拠として挙げた。ただし具体的な事業者の名前が公表されることはなく、2026年8月時点で名指し公表の実施事例はゼロのままだ。
効果については評価が割れる。Bird & Birdはこう分析する。「日本市場では、規制当局から『名指し』されることは取引停止に等しい。表面上の歯のなさを文化的文脈なしに評価すべきではない」(Bird & Bird, 2025)。
一方CSISは「悪意ある行為者はガイドラインに従わない。任意の枠組みでは既に適切に行動する事業者しか動かない」と指摘する(CSIS, 2025)。AI推進法が可決した際、国会自身も附帯決議でディープフェイクや雇用差別への「より強力な執行措置」を政府に要求した(京文, 2025年5月)。立法者が自ら制定した法律の限界を、可決の瞬間に認識していたのだ。
2026年の転換点:AI推進法の周辺で変わる著作権と個人情報保護
AI推進法自体は変化していないが、2026年は周辺法令で二つの重要な動きがあった。
個人情報保護法(APPI)の改正
2026年7月10日、個人情報保護法(APPI)改正案が両院を通過し、7月17日に公布された。AI推進法のソフトな世界とは対照的に、こちらには実質的な制裁金が登場する。
主な改正ポイントだ。
- AI訓練データの例外: 統計解析・AI開発目的なら仮名化処理を条件に個人同意なしでデータ使用可能
- 特定生体個人情報の新設: 顔認証データ等の取扱いを厳格化、個人の削除権を拡張
- 初の行政課徴金: 1,000人以上に影響する大規模違反には経済的利得相当額の課徴金(再犯は1.5倍、自己申告で50%減額)
施行は公布から2年以内(最長2028年7月)に政令で定める(Mori Hamada & Matsumoto, 2026)。
知財推進計画2026:生成AI著作権の立法化予告
2026年6月12日、政府の知的財産戦略本部が「知財推進計画2026」を採択した。AI学習に使われた著作物の権利者への補償制度を法制化することが明記され、声優・俳優の声の模倣への対応立法も予告された(TechJack Solutions, 2026)。
生成AIの著作権問題を「条文なき問題」として扱ってきた日本の現状は、2026〜2027年にかけて大きく変わる可能性がある。
光と影:イノベーション優先の代償
光の面
日本のアプローチが機能する場面はある。
規制コストゼロで製品開発ができる。 EU AI法では高リスクAIの市場投入前に適合性評価・技術文書の整備が必要だ。日本企業は国内向け製品に限れば、そのコストを負担せずに済む。これはプロダクトの反復スピードと直結する。
技術の変化に追従できる。 元METI職員でAIガバナンスの第一人者・羽深宏樹氏は「規制は証明された害に比例するものでなければならない。硬直した事前規制は正しい基準を間違ったタイミングで固定化する」と主張し、アジャイルガバナンスの理論的基礎を作ってきた(CSIS, 2025)。
Future of Privacy Forum(FPF)も「規制が技術成熟前に課されると、採用を阻害し、才能を規制の緩い管轄区に追い出す」とイノベーション優先モデルの意義を評価する(FPF, 2025)。
影の面
致命的な死角もある。
悪意ある行為者への実効性は乏しい、という批判がある。 CSISが指摘するように「ガイドラインは最初から適切に行動する事業者しか動かさない」。違反コストがゼロならば、非コンプライアントでいることに合理性が生まれる。
EU向け事業者は対策が必要になる可能性が高い。 EU域内のユーザーにAIサービスを提供する日本企業には、AIシステムのリスク区分や事業形態によっては、日本の推進法の緩さに関係なくEU AI法が適用される。罰則は最大€3,500万または全世界年商の7%だ。「日本では対応不要」と高をくくるのは、EU向け事業者にとって危険な誤解になる。
White & Caseは「推進法が義務を課さない領域で実際の被害が発生した場合、既存の一般法(民法・刑法等)での事後対応に委ねられる」とその限界を明確にしている(White & Case, 2025)。
中小企業へのリーチが弱い。 CSISは「ガイドラインはSMEには届かない」とも指摘する(CSIS, 2025)。社内に法務・コンプライアンス担当を持たない中小企業は、自主的なガイドラインを把握する余裕も動機もない。制度の恩恵が大企業に偏るリスクがある。
- EU向けサービスがあるか確認。あればEU AI法への対応が必要になる可能性が高い(透明性義務は2026年8月2日から適用、個別確認は専門家へ)
- 生成AIをユーザーに提供している場合、AI推進法上の「通知義務」(AIと対話中であることの開示)を実装済みか
- AI事業者ガイドライン Ver.1.2(2026年3月)に沿ったリスク管理文書はあるか
- 採用・人事評価AIを使っている場合、高影響AIとしてのHITL(人間監視)が設計されているか
- APPI改正への準備:生体データ・AI訓練データの取扱いポリシーを見直したか
- 知財推進計画2026の動向ウォッチ:生成AI著作権補償立法が自社に影響するか判断を
EU AI法の執行が始まった今、日本企業が取るべき具体的なステップを確認してほしい。高リスクAIの「延期」の真相と実務チェックリストを網羅した。
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本記事は公開情報・報道・専門家分析をもとに執筆しています。法律の解釈や個別の適用については必ず弁護士等の専門家にご相談ください。本記事の情報は2026年8月3日時点のものです。